神の歌

春分点をひとめぐりして、秋分がやってきました。酷暑の夏もようやく過ぎて、秋の風が心地よい季節となりました。我が家では、愛犬のんの(5歳)が夏の終わりに虹の橋を渡って、お空に還ってしまったので、秋の気配がちょっぴり寂しい今日この頃です🌈

昨年体調を崩したときも、亡くなる前の夜も、亡くなった日にも、私はのんのに歌を歌ってやりました。生前、私が歌うと、耳をそばだてて聴いていたのを思い出します。鍵盤の和音に反応して、遠吠えで一緒に歌ってくれたり、言葉は少ししかわからなかったけど、音楽のバイブレーションは必ず伝わっていたと思っています。

そんな思い出とともに、歌について思いを巡らせてみました。

琉球犬ミックス のんの

人が最初に生み出した音楽の形態は、楽器より先に歌だったと云われます。音楽民族学者の小泉文夫氏は、異性を惹きつけるために通常の声とは違う声で歌う「性衝動起源説」や、共同で息を合わせて作業をするために歌う「労働起源説」、言語と音楽との密接な結びつきから考える「言語起源説」、遠くの人に何かを伝えるために大声を上げたり音を出したことから始まったとする「信号起源説」、日常から離れた特別な力を必要とするために音楽が必要とされたという「呪術起源説」などを説いています。

ジョーゼフ・ジョルダーニア著、森田稔訳の「人間はなぜ歌うのか?」とう著作には、人間以外で歌を歌うとされる鳥やクジラは地上には住んでおらず、猛獣などの外敵の多い地上に棲む生き物の中で、唯一歌を歌うのは人間だけという視点から、猛獣との戦いに挑むにあたって人間の感覚を「戦闘トランス」状態にもっていくことが集団歌唱としては発生したのではないか、と述べています。

呪術起源説も集団歌唱説も、どちらもトランス状態となって、特殊な能力を発揮するという手法であり、何か目に見えない強力なエネルギーと繋がるための方法であることは間違いありません。見えない世界とつながる、言い方を変えれば、神とつながるためのツールだったのではないでしょうか。

日本における歌の起源は、ヒマラヤ南麓から東南アジアの北部山岳地帯や中国南部にかけての, いわゆる照葉樹林帯の少数民族にさかんな習俗である「歌垣」と言われています。歌垣とは, 男女の歌掛け遊びです. 音楽にはさまざまな機能があります. その 1 つが求愛という機能で, その代表例が歌垣です。歌垣は『古事記』(712),『風土記』(奈良時代初期),『万葉集』(奈良時代末期) といった文献から, 日本でも古くから存在していたことを確認できます。

「うた・歌う」の語源は民族学者、折口信夫氏によれば、「うった(訴)ふ」であり、歌うという行為には相手に伝えるべき内容(歌詞)の存在を前提としている、と言います。国文学者、徳江元正氏は、「うた」の語源として、言霊(言葉そのものがもつ霊力)によって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「打つ」からきたものとする見解を唱えています。

日本の伝統的な歌は、民謡、わらべ歌です。これらは、民間の生活の中で歌い継がれてきました。

日本の民謡は、農耕と深く結びつき、労働歌や、子守歌など、集団の生活の中で自然に発生し、口承で伝わってきました。民衆の喜びや悲しみ、日常のことや季節の変化、仕事の苦労やラブソングなどが、歌詞や旋律に反映され、地域文化やナショナル・アイデンティティの構築に深く影響を及ぼしています。

歴史的背景は稲作農業の始まった弥生時代から平安時代ごろまでに地域社会に広がった、とありますが、私は、縄文時代からあったのではないかと推測しています。なぜなら、狩猟採集民族であったアイヌ民族のウポポ(座り歌)などは、相当古いものであるからです。

音は祈りであり、宇宙と共鳴する手段である、というのは世界共通です。

モンゴルには「ホーミー」という独特の歌い方があります。ホーミーは「幸せを呼ぶ音楽」とも言われ、一人の歌い手が二つ以上の音を同時に出してハーモニーを奏でるオーバートーン・シンギング(倍音唱法)という歌い方をします。

アルタイ山脈で、谷間を吹き抜ける風の音を、人が真似して生まれた、という説があり、歌詞ではなく、旋律的な音の流れを奏でるものです。原初の歌はこのようなものだったのではないか、と思えます。

ホーミーは、心を癒す効果があり、出産前の女性に聴かせると安産になったり、動物の心と通じ合うことが出来ることから、スピリットと交信することもできる、と言われます。

喉を絞って出す低い音は、一定の音階でベースの役割をしていて、その音を口腔内で共鳴させて出す高い音は、音階が上下に揺れるためメロディーを生み出します。歌い手の身体そのものが楽器となり、高音域の音は、脳に作用して、快楽時のα波を引き起こし、心身が安らぎ、自然治癒力が上がる、とも云われています。

チベット仏教の儀礼に用いられる声明(サンワ・デュパ)も、超低音で唱和され、倍音のホーミーが加わります。もともとは、古代インドにおける5つの学科のひとつがサンワ・デュパで、サンスクリットなどの音韻論・文法学だったものが転じて、仏典に節をつけた仏教音楽になったということです。

肉声を通じて、仏の世界を表現しており、現実世界から離れ、意識の深部へと入り込み、時間の概念さえ曖昧になり、音の海の中でだんだんと意識は静まり、最終的には浄化の感覚を味わう、と云います。私も、サンスクリット語のマントラ「AUM(オーン)」を唱えている時、UMの音が口の中で倍音になり、後頭部に響いて身体が振動し、意識が持っていかれそうになることがよくあります。倍音やばし!!( ̄▽ ̄;)

日本の仏教でも、天台宗や真言宗が声明を唱えます。日本の声明は、中国の仏教声楽である梵唄(ぼんばい)、魚山(ぎょざん)などの音楽理論が基礎となっており、梵唄を作曲する専門の僧がいて、声明の習得は口伝によるものだったそうです。

チベットの声明は、シンバルのような楽器のティブー、ブック、チェルに、ダマルという太鼓、そしてトゥン・チュンというチベット・ホルンが加わって、身体の奥深くに響き渡るような迫力のあるサンワ・デュパとなります。

チベット音楽の源は、自然崇拝と深く結びついています。風の音、川のせせらぎ、動物の声が神聖視され、笛は風の化身であり、太鼓は大地の鼓動とみなされ、音楽は自然との対話であり、目に見えない存在と繋がる術です。宗教が体系化される、ずっと前から、人々は音を用いて、山の精霊や空の神々に語りかけていました。宗教に体系化されてからも、その旋律は常に、風や石や水の記憶をまとっています。山にこだまする声明の歌声は、太古から続く自然の呼吸を映し出し、その源流は、歌そのものが祈りである、ということを伝えてくれています。

北インドの古典音楽に、「ドゥルパド」という声楽があります。歌が基本とされ、ルドラ・ヴィーナという弦楽器や、タブラの前身であるパカワジという両面太鼓の伴奏で演奏されます。

ヒンドゥー教では求道の道をヨーガと言います。ヨーガとは、もともと、統合、結合、ユニオン、という意味で、真我である神と分離してしまったエゴを再統合するための修行の道がヨーガです。

ヨーガには3つの道があります。

献身と慈愛のバクティ・ヨーガ

知識・智慧のジニャーナ・ヨーガ

瞑想のラージャ・ヨーガ

ラージャ・ヨーガに、肉体と精神を整えるハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガがあり、そのひとつにナーダ・ヨーガがあります。ナーダは音という意味です。つまり音のヨーガです。ナーダは目に見えぬ世界を震わせる力を宿す、と言われます。

ドゥルパドは、音楽を通して神を讃え、神を愛するバクティ・ヨーガであり、真実の自己に関する智慧を得るためのジニャーナ・ヨーガであり、歌い方の核は、ナーダ・ヨーガであると云います。

ドゥルパドの歌い手は「ラーガ」と呼ばれる旋律を、ほぼ即興で展開していきます。数千あるといわれるラーガの、そのひつつひとつには名前があり、演奏されるべき時間や季節、情感が指定されており、どれもが宇宙の原理と結びついているとされます。旋律であるラーガに対してリズムの部分を「ターラ」と言い、ターラはラーガを支える土台として、脈打つ命のようにラーガと呼応します。

「アーラーブ」と呼ばれる歌い手の独奏部分と、パカワジとの合奏部分に分かれる演奏形態の中で、アーラーブでは、意味を持たない音節でラーガの宇宙観をゆったりと表現し、合奏部分では、宗教的な歌詞を使って即興します。瞑想的なアーラーブと祈りの合奏部分を通じて、宗教と音が一体となった、ラーガの宇宙と奥深いドゥルパドの世界が展開されます。

ドゥルパド声楽は、精神的探究の手段として用いられ、声を震わせる独特な歌唱法で、感情や思想、祈りを振動させ、歌の中に自己を消し、宇宙と一体化します。ラーガは魂を開く瞑想で、ターラは精神の歓喜の鼓動なのです。

私は以前、ドゥルパドの声楽家を目指す青年の「夢追い人」というインド映画を観ましたが、その映画の中で、主人公シャラドのグルジ(師匠)が言った言葉がとても印象的でした。

「ラーガは神に至る道を人々に示すものである。」

「歌っているその人は、ラーガを通して心の有り様を見せている。ラーガが心のどんな面を照らし出すかは、その人自身にもわからない。」

古典音楽を極めることの厳しさや試練の道が描かれる中で、ヨーガの教えと重なり、映画の中で絶えず流れる幻想的なラーガが私の脳内でいつまでも鳴り響いていました。ちなみに、インド映画によく登場するダンスシーンは一切ないシリアスな内容です(^^♪

インドには難しい古典音楽とは別に、誰もが実践できる歌うヨーガ「バジャン」があります。神との親密なる対話、と云われるバジャンは、声に出して歌うだけで、深い瞑想状態に入り、純粋な喜びに包まれる魂のヨーガです。

バジャンの語源はサンスクリット語のバジュ(愛を注ぐ・分かち合う・崇拝する)。内なる神性、宇宙の源、あるいは自分がもっとも神聖だと感じる存在への、純粋な愛の表現であるという意味で、声が宇宙への美しい祈りとなります。

愛する神の名を、繰り返し唱えたり、その神聖な物語をシンプルなメロディーに乗せて歌う、という行為そのものが祈りであり、瞑想であり、やがて歌う者と聴く者の心を、言葉を超えた次元へと導きます。バジャンを歌うとき、理由もなく涙があふれ、心の重荷がすっと軽くなるときがあるのは、感情の浄化や、魂の琴線にふれる声の振動が、心身にもたらす深い癒しの力だと云います。

私たちは日常的に、意識的にも無意識的にも、悲しみや怒り、不安感や孤独感など、多くの感情を抑圧しています。バジャンは、歌の振動によって、心の扉をノックし、強力な感情のカタルシス(浄化)をもたらします。バジャンを歌うとき、フリーズした感情を溶かし、涙とともに、長年蓄積された感情のエネルギーが一気に流れ出すのです。

バジャンの歴史は、紀元前1500年頃のヴェーダ時代に遡ります。リシ(聖者)たちが、宇宙の真理を音の形で受け取り、「サーマ・ヴェーダ」として歌い継いだのが始まりとされ、6世紀~7世紀にかけて、インド全土を座巻したバクティ運動によって、それまでの難解なサンスクリット語の経典や儀式、厳格なカースト制度から生まれた、「恐れと服従」という神との関係から、神への純粋な愛であるバクティだけが魂の解放へと導く「愛と親密さ」という関係性へ変容し、恋人のように神を慕い、友のように神に語りかける、神への愛の表現方法がバジャンだったのです。

バジャンには、リードシンガーの後に続いて同じフレーズを繰り返し歌う形式のキールタンというチャンティング(詠唱)があります。

「マントラと言霊」の項でも説明しましたが、繰り返しマントラを唱えることによって、サンスクリット語の振動パターンが、声帯を通して発せられるとき、その振動は全身の細胞へ響き渡り、エネルギーセンターであるチャクラを活性化して、楽器の調律のように存在全体が宇宙の調和した周波数に同調し、心と感情を高次の状態へ導くサポートをします。

心はモンキーマインドと言われるように、常に枝から枝へ飛び移る猿のように、絶え間なく動き続けています。過去への後悔、未来への不安、現在への不満など、これらの思考の波は、私たちの心を「今ここ」から引き離しています。

キールタンのリズムやメロディーに身をゆだね、マントラに意識を集中させるとき、この騒がしい思考の流れが鎮まり、歌うことに没頭するなかで、深いマインドフルネス(今この瞬間を感じる)の状態が自然に生まれてきます。この思考の静止をもたらすメカニズムこそ、キールタンが歌う瞑想と言われる所以です。

このメカニズムは、現代科学でも裏付けされています。

声を出すこと・・・ハミングやチャンテイングは、迷走神経を刺激し、特に安心感や一体感をもたらす腹側迷走神経という副交感神経を活性化させることがわかっています。また、歌うことで心拍数が安定し、血圧が下がり、ストレスホルモンの分泌が抑制されることも証明されています。

そしてグループやサークルでキールタンを歌うとき、参加者の脳波が同期し、深い一体感と至福感をもたらすオキシトシンが分泌されます。これによって、ストレスの軽減や集中力の向上、また自己認識力も向上し、周りの人や環境をありのままに受け入れ、意識的に観察する能力が養われます。

私もキールタンを歌うとき、毎回ほっこりと癒され、時には、体内記憶が甦るような安心感や幸福感に包まれて、泣きそうになったりもします。そして歌い終わったあとには、温泉に浸かったときのような、ほんわかしたあったかい気持ちと、浄化されたすっきり感で満たされるのです。

人類が、大自然や目に見えない存在や神や宇宙と繋がるために編み出した歌。

難解な哲学を学ぶ必要もなく、また、完璧な音階で歌う必要もない神の歌。なぜなら、宇宙は完璧を求めておらず、ただその純粋な行為と献身に応えるだけだからです。

古代日本の神楽もまた、神懸りを行うものであった、と言います。

宮中の御神楽から端を発し、民間の里神楽として、巫女神楽や山伏神楽、獅子神楽などが現在も受け継がれています。神楽の語源は神座(かむくら・かみくら)。神が宿るところを意味します。

神座に神を降ろし、穢れを祓ったり、神懸りを行い、やがてそこは人々が交流する場所、拠り所となり、ここで行う歌舞が神楽と呼ばれるようになりました。

古代から人々は、歌が神や宇宙への祈りとなることを知っていたのです。

キールタン・サークル SHANTI SHANKARも、大いなる宇宙や皆様とひとつになることを願って、祈りのうたをうたい続けていきます。どこかで見かけたら、ぜひ一緒に歌ってくださいね!😊

AUM SHANTI 🌟

美濃市うだつの上がる街並み/みのっ子座にて Shanti Shankar
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